ayanologはてな館

主に東京の東側で暮らしている私の日々を、ごはんやおやつの話を中心につづります。ayanoのblogなのでayanolog。夏の間はかき氷専門ブログ「トーキョーウジキントキ」もやってます。2013年10月に、はてなDiaryからHatena Blogへ引っ越してきました。

米田知子「終わりは始まり」@原美術館

「小粒でもピリリとスパイスが効いている美術館といえば?」と問われたら、まず思い浮かぶのが原美術館。かなり目利きのキュレーターさんがいると思われる、センスのいい企画展を連発している美術館です。今回は米田知子写真展「終わりは始まり」に行ってきました。(11月20日まで)

ここ、品川駅からけっこうはなれているんですよね。普段はてくてく歩いていくのですが、日曜日だけ動いているシャトルバスがあると聞いて使ってみました。駅から美術館まで5分かかるかかからないかで着いちゃってビックリ^^;;

米田知子はロンドンを拠点として活動する写真家、らしいのだけれど私は初見。写真を見て、文字を読んで、また写真見ると、同じ写真が違って見えてくる。目というよりも頭で見る写真なのです。彼女の写真は、私にとって非常に示唆的でした……「ああ、こういう表現もあるんだ」と。非常に月並みな表現ながら、目から鱗が落ちるような思い。

さて、ここから本題。

いきなり個展の話から離れますが、実は私は、自分の写真にものすごく強いコンプレックスがあるのです。どんなコンプレックスかというと「写真だけですべてを語っていない」
多分、私の写真は記者の写真なんですよね。写真だけでは成り立たず、その横に文章があることが前提。例えばかき氷の写真があったら、横にはどこのかき氷で場所はどこで、値段がいくらで……ということが書いてある。写真と文章が補い合い、合わさってようやく一人前になるのが、私の写真であり文章でありblogであり記事なわけです。

「いい写真に説明は要らない、タイトルさえも邪魔だ」――言葉遣いは少しずつ違いますが、いろんな人が言っている言葉です。これがね、初めて聞いたときから強く、私の意識を支配しているのです。身近なところだと、id:isgrもそう書いていた記憶があるし。タイトルだったり説明文だったり、「必ずテキストを必要とする自分の写真はダメだ」という思いがずっと強くありました。

で、米田知子に戻ります。彼女が撮るのは、日常の何気ない風景、さりげない一コマ。例えば、賑わう海水浴場であったり、ベンチで語らうカップルであったり、山をのぼったらパッと開けた景色であったり。しかしその写真の横にある説明文を読むと、そこが歴史的に意味があるところであることを知るわけです。第二次大戦のあの上陸作戦が行われた海岸だったり、ベンチのすぐ後ろに張られたロープの先は地雷原になっていたり、サイパン島玉砕の崖に向かう道であったりと……。

感想の最初に書いた「写真を見て、文字読んで、また写真見ると、同じ写真が違って見えてくる。目というよりも頭で見る」とは、そういうこと。写真の意味をテキストで知ることで、撮影者の意図をようやく知ることができる写真。

写真の表現方法の一つとして、「テキストと組み合わせることが前提の写真」というのもあるんだと、米田知子の写真はそれを私に教えてくれました。もちろん、彼女の写真と自分の写真を同列に並べようなんて思ってません。でも、私の写真がテキストを必要とする写真だからと言って、卑下する必要はないんじゃないか?と思えたら、スッと気持ちが楽になったのでした。

原美術館らしい、小粒でぴりりとした企画展でありました。頭と心に訴えかける写真をたくさん見られて良かった、行って良かった。最後に自分のための覚え書きとして、特に印象的だった写真を挙げておこうかな。恋人が抱き合っているプール(上の写真です)/ノルマンディ上陸作戦の海岸/サイパンの崖/地雷原の前のベンチ/北朝鮮と中国の国境の川を行くボート/フロイトの眼鏡−ユングのテキストを見る/アドルフとエヴァのソファ。

企画展そのものについては、タコちゃんのレポがすばらしくよくまとまってます→前編後編

追記:isgr兄の「奥浄土ヶ浜にて(8)」→