ayanologはてな館

主に東京の東側で暮らしている私の日々を、ごはんやおやつの話を中心につづります。ayanoのblogなのでayanolog。夏の間はかき氷専門ブログ「トーキョーウジキントキ」もやってます。2013年10月に、はてなDiaryからHatena Blogへ引っ越してきました。

加藤博一が亡くなった……

1月21日、野球解説者の加藤博一氏が肺癌で亡くなった。野球解説者……と一応書いたけど、私の中ではいつまでも、「元(横浜)大洋ホエールズの」「元スーパーカートリオの」加藤博一だ。会社でこのニュースを見たときはものすごくショックだったが、周りは誰も分かってくれなさそうだったので、心の中で泣いていた。

以下、完全な昔話なので、野球(と鯨)に興味がないかたはスルー推奨。

幼い頃、私は野球大好きな子どもだった。日曜日には父親と公園でキャッチボールをし、後楽園や横浜スタジアムに連れて行ってもらうのがなにより楽しみだった。そんな男の子みたいな子ども時代の私が、一番贔屓にしていたチームが(横浜)大洋ホエールズ。テレビやラジオの中継は欠かさず観ていた(聞いていた)し、親会社のマルハにも特別な思い入れがあった(TBSはどうでもよかったけど)。

小学校に上がる前から大洋ファンだった私は、その後野球を観ることをやめるまでほかのチームを応援することはなかった(ヤクルトも嫌いじゃなかったけど、ファンというほどではなかった)。10年以上大洋ファンをしていたわけで、ポンセが凡フライをミスしておでこにぶつけるシーンを目の前で観たり、エース遠藤がひたすらかっこよかったり、男の人のヒゲは好きじゃなかったけど斉藤明夫だけはいいなと思ったり、屋敷要は陸上に転向したらどうだろうかと真剣に友達と話し合ったりと、大洋にまつわる思い出話ならいくらでもある。そんな私の記憶の中でも、最も大洋ホエールズが輝いていた(=面白かった)のは、やはり近藤貞夫監督の時代だと思う。

近藤監督といえば「スーパーカートリオ」。高木豊加藤博一屋鋪要という足の速い3人を1-3番打者に据えるという試みで、当時はずいぶん話題にもなったのだ。実際には足の速い3人が塁に出たところで肝心の4番が打てなかったりして、話題になったわりには勝てなかった(でも、そんな大洋が好きだった)。そのシーズンも含めて大洋はBクラス(というか下から数えた方が早い順位…)を低迷するのだが、それでもネーミング1つで話題作りができる近藤監督の才覚に、子供心にしびれた。今思うと、近藤監督はマーケティングのセンスがあったということなのだろう。

去年近藤監督が亡くなったときも相当悲しかったが、そのスーパーカートリオの一角である加藤博一が亡くなったというニュースは、さらに大きな衝撃だった。オフシーズンになるとプロ野球ニュースなんかにも出ていて、現役当時から明るくて面白いキャラクターだったのに……。ファミスタでも、足の速い「かとう」が好きで、よく走らせていたのに……。

1993年、横浜大洋ホエールズは「横浜ベイスターズ」に改称する。このとき近藤昭仁監督は日ハムと大量トレードを行い、高木、屋敷といった主力選手を放出し、駒田を獲得した。一説には「駒田を採るためにお金が必要で、主力選手を放出したんだ」とささやかれていたのも憶えている。巨人時代の駒田は嫌いじゃなかったのだが(友達が大ファンだったし)、それ以来「ベイスターズの駒田」を見るとなんとなく複雑な気持ちになった。

大洋の顔だった選手がいなくなり、球団名が変わったとき、私は大洋ファンをやめ、野球を観ることをやめた。その後1998年に横浜ベイスターズは38年ぶりのリーグ優勝を果たすのだが、自分でもおどろくほど他人事だったのを憶えている。いうなれば「昔の彼が偉くなったのをニュースで観た」くらいの気持ちだった。

24日に逗子の延命寺で行われた葬儀では、大魔神・佐々木が弔辞を読んだのだそうだ。「いいか佐々木、男はつらいときこそ笑うんだ。心で泣いても笑うんだ。それがプロだ。みんなが喜んでくれる、夢を与えられる存在でいよう」という言葉も、実に加藤博一らしいなあと思ったり……。

ちょっとだけ、と思ったのに、延々と書いてしまった……。22日にこのニュースを聞いて以来、しばらく頭の中で蒲田行進曲が鳴っていました。加藤博一さん、安らかにお眠りください。合掌。

Wikipedia「加藤博一」